This water can surely go anywhere.(But humans are going nowhere.)(2011〜2023)
材料・技法:
黒色塗料で染めた緞子による表装
宮城県仙台市荒浜地区の海で染めた美濃和紙
大分県日田市の土砂災害被災地の泥と現地で拾った画材で染めた美濃和紙
サイズ:二幅一対
文化財レスキューの現場にて見た光景を紙に映す。
2010年末の在学時、私は就職活動中に受けた性暴力被害で心身の調子を崩し、以降、抑鬱や希死念慮を繰り返しながらかろうじて生きていました。
当時は性暴力被害や精神的な不調に対する救済措置も少なく、また、偏見も強い時代でしたので家族からの理解も得られず、周囲からの好奇の目に苦しんでいました。閉じこもって休みたいとの思いもありましたが、当時まだそれらは「甘え」として許されない風潮がありました。
2011年3月に発生した東日本大震災を目の当たりにした時、たまたま「生き残ってしまった」自分の命をどうするかと考え、これまでアーティストとして行っていた表現ではなく文化財レスキューのボランティアを行うことを選びました。
当時、私は現地で写真の洗浄を主に行っており、作業を行う中で地域に住んでいた方々から震災発生当時のお話を伺う機会がありました。
被災地の状況は筆舌に尽くしがたく、多くの命や生活が一瞬にして奪われてしまったことをまざまざと見せつけられました。
海岸の慰霊碑に手を合わせていたとき、巡回に来ていらっしゃった警察官の方から震災時にご自身を庇った上司を目の前で亡くされたお話を聞き、何も言葉を発することができませんでした。
警察官の方は、自分は傷と共に生きることと地域の文化や芸術で人を鼓舞することを選んだ、と話して去っていかれました。
目の前に広がる灰色の海は静かに凪いでいました。
スケッチをしよう、という浅はかな思いで持ってきていた画材を広げることは出来ませんでした。
持っていきていた紙を波打ち際に沈め、せめてこの景色を忘れまいと思うことしか出来ませんでした。
社会問題等を表現などで取り扱うとき、被災地とそれ以外、被災者と作者の間に非対称性が生じ、ともすれば搾取構造になる恐れがあります。
当時、東北にエールをとの名目で多くの美術家やクリエイターがそれらを行っていましたが、真摯に向き合わない作品が現地の方を傷つける現場にも立ち会うことがありました。
また、表現ではなく資料保存の実務に目を向けたことも、当時、アーティストが表現を捨てたと批判されることもありました。
実際の痛みや被害に対峙せず制作を行うことへの欺瞞を感じたことは事実であり、アートから逃げたということも否めません。
痛みにどう対峙するか、社会問題をどう扱うかはいまだに課題でありますが、当時出した自分なりの態度がアートの外でアートを見つめることであり、社会に対峙することそのものでした。
いまだに正しい答えは出せていません。
しかしながら、文化財保存修復や学芸員など、文化を支えて繋げることを明確に意識し始めたのはこの頃からであり、現在も文化財レスキューの募集がある際には可能な限り参加を続けています。